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西暦
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年号
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できごと
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200
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縄文晩期
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日本の遺跡から布目の圧痕のある土器片が現れる。
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239
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女王卑弥呼の使節、魏国に織布を捧げ、同国から錦、白絹等の高級織物を下賜される。
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749
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天平勝宝
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越後国久足郡夷守郷より献ずる庸布一段が正倉院に現在残っている。
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927
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延長5年
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延喜式において、越後国商布一千段の貢納が決定。
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1192
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建久3年
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源頼朝、従夷大将軍宣下のため鎌倉に下向した勅使に「越布一千端」を贈る。越布は越後麻布の意。
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1337
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建武4年
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上杉憲顕、越後守護となる。
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1486
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文明18年
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越後国守護上杉房定、将軍足利義尚に、越後布製30端を贈る。このような記録は頗る多い。この頃の武家作法書に、越後布製の素襖を着ないと幕府の御用に出仕できないと明記してある。
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1523
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大永3年
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魚沼郡の青苧を運ぶ専用船苧船が戦乱のため若狭国で16艘拿さる。
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1560
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永禄3年
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上杉謙信上洛し、多数の越後麻布を宮中に献上。
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1586
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天正14年
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上杉景勝、豊臣秀吉にはじめて謁見したとき越後布300端献上。
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1598
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慶長3年
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上杉景勝、春日山城主55万石から会津若松に移される。越後に於ける青苧生産は領主的保護を失う。後日「苧は上杉公に随きて会津へ行きたり」と云われた。
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1601
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慶長6年
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直江兼続、越後青苧を出羽国米沢に移植。
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1624
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寛永元年
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松平光長、高田藩主となり越後を支配。
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1631
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寛永8年
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魚沼郡における麻布生産高2,803疋。
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1651
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慶安4年
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小千谷の豪家ら、青苧、麻布を京坂、江戸等と大量取引し、問屋業を始める。
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1661
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寛文年間
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縮布の始祖 明石次郎(諡名堀次郎将俊)小千谷に来住。麻布の品質改良を教えた。これより縮布という一段の高級品となる。
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1673
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延宝元年頃
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小千谷・十日町・堀之内における縮布がしだいに盛んになる。
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1681
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天和元年
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越後騒動のため、松平光長家改易。魚沼郡は幕府領となる。
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1688
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元禄元年頃
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幕府・諸大名から縮布のまとまった大量注文が増える。これを御用縮布といい、織女は精魂を込めて織った。
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1698
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元禄11年
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縮布運上金(税金)民間人の請負徴収制となる。
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1724
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享保9年
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魚沼郡は会津藩領所となる。
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1770
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明和7年
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この頃より絣模様指定の御用縮布の注文が来る。
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1779
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安永8年
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小千谷の縮布問屋19人の名がある。彼らは富商となり、地主として成長する。
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1782
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天明2年
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魚沼郡の縮布生産商、22万反を超過。
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1783
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天明3年
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飢饉のため各地に暴動が起り、人民困しむ。
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1792
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寛政4年
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与板領の小作人、問屋地主にたいし、小作米不納の一揆を起こす。
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1797
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寛政9年
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一揆は小作人の敗訴となり終結。
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1814
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文化11年
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行商人が増加し、江戸の呉服問屋に訴えられる。訴訟の結果、行商人の数を制限し越後全体で115人の行商株が成立。
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1818
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文政元年頃
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縮布の減産傾向が顕われ、絹織物が台頭してくる。
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1842
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天保13年
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天保改革のため高級縮布が一時的に禁止された。
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1848
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嘉永元年
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始祖明石次郎を祀る明石堂再建。
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1865
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慶応元年
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減産の縮布の代りに、絹織物に運上金を課するとに反対し魚沼郡に暴動が起きた。
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1871
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明治4年
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オーストラリアのウィーンで開催された万国博覧会に縮布を出品。
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1873
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明治6年
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輸入化学染料使用者が増加。粗悪品のため、柏崎県で使用禁止。
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1874
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明治7年
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小千谷に機会社創立。木綿、絹織物を製造、縮布は製造せず。
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1911
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明治44年
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ラミー糸の輸入により、新しい麻織物の時代に入る。
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1992
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大正11年
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町立小千谷麻織物研究所を創立。
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1933
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昭和8年
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麻織物研究所の創作品夏月織完成。
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1937
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昭和12年
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夏月織、全国夏織物競技大会で特賞獲得。
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1955
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昭和30年
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越後上布・小千谷縮布の製作技術が、国指定重要無形文化財となる。
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1975
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昭和50年
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通商産業大臣より「伝統的工芸品」としての指定を受ける。
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